自分という単位が変わる時
自分とは誰ですか?と問われる時、あなたはどう答えるでしょうか?
多くの場合この体で経験してきたことをベースにして、自分について答えると思います。
日本の~に生まれて、~学校を卒業して、~に就職して。。。
親は~で、~という人間になりなさい、という教育のもと育てられた。。。
全て自分の体で経験してきたことを元に、自分というアイデンティティを確立していきます。
でも本当にこの体1つで経験体験してきたことが、全てと言えるでしょうか?
その限定された範囲で、自分というアイデンティティを決めつけてしまうことは、
本当に正しいと言えるのでしょうか?
ベストセラーになっているドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルの著書『なぜ世界は存在しないのか』では、「人間は有限な存在で、部分的な経験しかできず、全体を把握し得ない。だから、世界は存在しない』というような趣旨のことが主張されています。
「この身体が自分」という規定を自分自身にかけてしまうと、確かに人間は部分的な経験体験しかできないのです。
たまたまこの体1つで経験体験したことを元に自分という存在を決め付けてしまっては、自分に秘められた無限の可能性が殺されてしまいます。
すべてが情報化されるデジタルの時代においては、
自分という存在の単位が変わらなければならないのです。
宇宙の外から抱きしめて、この体が何のために、
どれほどの宇宙が協力し合ってでき上がっているのか、
その出会いの協力が積み重なった情報を得ること。
その時に、自分という単位が劇的に変わります。
自分という存在が部分的な存在から、全体の存在へと変化するのです。
そして、なぜこの部分的な身体を自分と錯覚させているのかも見えてくるのです。
自分の単位が全体に広がった時、
目の前に広がる現実画面がバーチャルスクリーンであることが理解でき、
自分が主体性を持って、この宇宙ゲームを楽しむことができるようになります。